「主 體 的 賞 味」基 準




 世間一般では、驛の蕎麦はそんなに美味い喰ひ物とはされてゐない。しかし或る日、このホームページを見た知人が小生に向かつて「貴君の評價が正しいのならば、我輩も "甲" の蕎麦を喰つて見たいものだ。」と云つた。かういふ態度はどうだらうか。ひと言で云へば邪道である。噴麺ものである。さういふ者が、わざわざ美味くないと云はれてゐる驛蕎麦なぞを喰ふ必要は無い。せいぜい市内の高級蕎麦でも喰つて満足してゐればよいだらう。
 人が不味いと云ふ蕎麦が如何に不味いのかを探求する事も、驛蕎麦巡りの樂しみであると小生は思ふのである。人の噂や世間の趨勢に流される事なく自分が主人となつて、主観的に味はふ。これが大事である。かういふ積極的な姿勢を驛蕎麦に於ける「主體的賞味態度」と呼びたい。

 このホームページは全國各地の蕎麦を評價する事によつて讀者諸君にその味はひを紹介してゐる。小生は「主観的に味はふ」を第一義としてゐるが、それは冷静な分析の上に成り立つてゐる。
實際、味覺に影響を与へる外部要素は多い。一日に何杯も喰つて満腹の度合が増えれば、一杯あたりの限界味覺效用が暫減してゆくのはその好例である。
氣象状態も味の印象を左右する要素を持つてゐる。暑い日のつゆ蕎麦は正直に云へば喰ひたくない。逆に晩秋の澄んだ空氣の中や厳冬のプラツトホームで白い湯氣を浴びて喰ふ蕎麦には風情があり、味の印象を良くするだらう。

 かういふ外部的要因を可能な限り排除し、小生の好みに合ふ味を客観的に追求する爲、小生は味の要素を数値化し、それらを表はす六角グラフの形状が如何に理想と相似するかによつて甲乙丙の三段階評價を行うものとする。


  • つゆの評價
小生の恩人によれば、つゆは蕎麦の印象の七割を決定する要素との事である。或る意味でこれは正しい。小生はつゆの味成分を、醤油、塩味、旨味、酸味、温度に分類して強い順に5段階に評價してゐる。
小生の理想は右チヤートに示す通り、やや濃い目の熱過ぎないつゆといふ事になる。東日本の蕎麦の多くは上部が膨らみ氣味になるが、西日本で喰ふ蕎麦は左下が強調される傾向がある。
重要な事だが、だし(旨味)が強過ぎる蕎麦は品がないとも思ふ。


  • めんの評價
驛蕎麦の主役は麺である事を忘れてはいけない。つゆに騙されないやうに麺を賞味しなければならない。
めんの味成分は、こし、色合ひ、香り、のどごし、瑞々しさに分類した。しかし御膳蕎麦のやうに「白色無香」が正常の場合もある。御膳蕎麦を好く思はないのは小生の勝手であるが、その点はなるべく店の意圖に従つた上で判斷したい。しかし、そもそも驛に一番粉を使つた蕎麦が有るとも思はれない。
「瑞々しさ」は、麺の持つ氣品とも云へる。氣品ある麺はつやつやしてゐて、粉つぽくない。また麺の小氣味良さを「のどごし」として判斷する事にしてゐる。


  • 聰合の評價
聰論で蕎麦を概観する場合は、バランス、値段、營業状態、地域性と云つた点をやや主観的且つ情緒的に評價する。
「バランス」は、めんとつゆのコーデイネーシヨンの他、種もの(天夫羅など)との調和が良ければ5である。「値段」では、その蕎麦を喰ふ事で金銭的に得をしたと思へば5、相応であれば3である。「地域性」は、その土地の特色が活かされてゐれば5、全く工夫がなければ1。「營業状態」は、元氣な店が5、元氣のない店が1である。そして小生といふ客であり主人公の素直な好き嫌ひの氣持ちを「その他」に纏める。

 諸君が或る仕事で判斷を迫られた場合、好き嫌ひや直感だけで實行するのは危険であらう。驛の蕎麦を賞味する際もこれに好く似てゐる。自分の主観に頼るとは云ひながらも、或程度の經験に基づいた冷静な視点が必要なのである。