峠 の 驛 蕎 麦




 峠道の麓の集落は古來より産物の交換市場が成立し易い環境である。しかし鐵道構内に於ける「峠」は其れとは違ふ意味で構内食堂の繁榮を齎した。即ち急勾配に備へた補助機關車の連結に伴ふ長時間停車である。
そこには、小休止する旅客を對象とした歩廊上の商賣が展開した訳だが、鐵道技術の發達は、かう云ふ風景を次々に駆逐した。


信越線 横川驛 「荻野屋」

 「峠の釜飯」の名で全國的に有名な業者である。日本で初めての驛蕎麦は此の驛で發賣されたと云ふ説がある。本當か如何かは知らない。

【沿 革】

 明治十八年、官營鐵道が高崎から横川迄開通した際、旅館「荻野屋」經營の高見澤仙吉が横川驛に店を出した。
現在の横川驛周辺の状況から考へると、何故あんな田舎で開業したのか不思議になるが、當時は東海道線や碓氷峠の鐵道も未開通で、横川で汽車を降りて中山道や直江津方面へ旅を続ける旅客も多かつたのであらう。尤も、数年後の碓氷線建設に伴ふ食糧需要を當て込んでの開業かも知れない。
 昭和二十年代半ばの荻野屋は經營的に恵まれなかつたが、昭和三十三年に荻野屋中興の祖、第四代經營者の高見澤みねじと實妹の田中トモミが「峠の釜飯」辨當を發賣した。画期的な益子焼きの容噐は、當局から中々許可が降りなかつたと云ふ。發賣後も苦戦が続いたが、文藝春秋誌に採り上げられて以來の躍進は、諸君も知る通りである。

【蕎 麦】

 釜飯以前に於ける荻野屋の名物は、立喰ひ蕎麦と磯部煎餅であつた。蕎麦の開始は明治二十六年、アプト式碓氷線の開通の頃らしいが、正確な年月日は知らない。當時は補助機關車の連結に十五分程度を要して居り、旅客はゆつくりと蕎麦を賞味したらしい。
昭和三十八年にアプト方式が廢止されると停車時間が短縮されて蕎麦を喰はせる余裕が無くなつた。それでも荻野屋は歩廊の上にこの名物蕎麦を残し、使ひ捨て容噐を専ら使用する事で、平成九年の碓氷線廢止まで存続したのである。

 小生が横川驛のプラツトホームで喰つた感想は、「何の面白味も無い蕎麦」であつた。しかしあのプレーンな蕎麦の姿は、ひよつとしたら創業の頃から變はらないのかも知れない。
横川では今も驛蕎麦が喰へるのだらうか。この業者は輕井澤驛にも營業権を所有してゐる。再びあの味に出會へるかも知れぬ。



北陸線 福井驛 「豊岡商店」

 福井驛の蕎麦屋の屋号は「本家 蕎ば今庄」である。何も知らない人ならば、近所の今庄の名物である「蕎麦」に肖つて命名したと思ふだらう。然し、この業者は元々今庄驛で營業してゐた。そして「名物今庄蕎麦」を産み育てたのも豊岡商店であると云ふ事實を知れば、諸君も福井驛蕎麦を喰ひたくなるだらう。

【沿 革】

 北陸線の敦賀・福井間が開通したのは明治二十九年である。この鐵道建設に自己の家屋を提供して協力したのが「豊岡商店」の初代豊岡与平であつた。
北陸隧道の新線が開通するまで、敦賀と今庄間の北陸線は鶴賀湾寄りの山中峠を通る線路であつた。途中の杉津辺りの有名な眺望をご記憶の方もお出でかと思ふ。
 今庄驛は峠に臨む驛であり、かつ補助機關車の連結による長時間の停車があつた。開通直後の明治三十年、豊岡与平は鐵道建設の貢献を認められて今庄驛の構内營業権を得た。當初は地元の名産である葛を用ゐた「葛まんぢう」の販賣であつたと云ふ。
爾來 豊岡家が經營を続けて今日に至るが、昭和三十七年の經路變更の際に福井驛へ移転してゐるのは、小生が賞味した通りである。

【蕎 麦】

 この豊岡商店の主力商品は、葛まんぢうと蕎麦である。昭和初年頃、第二代經營者である豊岡定治が、國鐵敦賀運輸事務所長から蕎麦製造の提案を受けたのが由來と云ふ。
抑々、今庄と云ふ土地は蕎麦が採れる處では無い。豊岡家は、前出の所長提案に真摯に取り組み、例へば麺の繋ぎに地元で採れる蓮根、自然生、鶏卵等を調合する等獨自の工夫を加へてひと味違ふ今庄蕎麦を完成したらしい。無論それは旅客から好評を博し、のみならず今庄の名物「今庄が蕎麦」として定着したのである。

 小生が福井驛で賞味した印象は、小さな丼鉢に入つた普通の蕎麦と云つた處である。知らなかつたと云ひ乍らも、小生の舌も相當いい加減である。機會があれば再びその麺を味はひ、そして名物の葛まんぢうの風味を味はひたいと思ふ。




文中の敬称は略させて頂きました。
新事實を御存知の方は小生まで一報願ひます。