陸 奥 の 霸 者




 みちのくに居を構へる者で、よもや伯養軒の名を知らぬ者は無いだらう。青森、岩手、秋田、宮城、福島、山形の東北六縣を商域に持ち、驛構内事業のみならず結婚式場も營む。若し伯養軒が明日無くなつたら東北を鐵道で旅する者は餓ゑて死に絶へる事だらう。


東北線 仙臺驛 他 「伯養軒」


【前 史】

 先日、仙臺驛で伯養軒の汽車辨當を買つたが、手提げ袋に「創業 嘉永三年」とあつた。嘉永三年は西暦に直せば1850年と云ふ事になる。未だ鐵道の無い時代である。伯養軒の母體は、十九世紀半ばに仙臺國分町に在つた旅篭「大泉屋」である。そして明治初年の大泉屋主人、大泉梅次郎が伯養軒の基礎を築いた人物なのである。

 當時、日本の旅行は大きな變革期に直面してゐた。云ふまでもなく、其れは鐵道開業である。そして變革は必ず反對の動きを伴ふものである。旅篭、茶屋、駕籠屋など、其の頃の旅行業者でも、鐵道によつて自己の商賣が廢れるを危惧する向きが多かつたのではないか。處が大泉屋は積極的に鐵道へ接近して行くのである。

 その先鞭は明治二十三年の支店の開業である。梅次郎は仙臺驛前に壱千坪もの用地を購入して大泉屋支店を出してゐるが、之は明治二十九年に西洋式のホテルに改裝された。今日の「仙臺ホテル」である。
一方、鐵道構内營業に參画する第一の事蹟として、明治二十五年の青森驛棧橋食堂の開業が有り、次ひで同二十七年、仙臺驛にも賣店を開業してゐる。

 しかし、大泉家の仙臺ホテルが本格的に鐵道に關係するのは、明治三十六年の列車食堂への參入であらう。仙臺ホテルは上野青森間を結ぶ急行列車の列車食堂業者へ指定されたが、梅次郎の次の代に入つて、その路線は常磐線、奥羽本線と擴大し、仙臺ホテルの名を東北一帯に廣める事となるのである。
此の列車食堂事業は昭和十三年に日本食堂株式會社に合併される事になるが、其れは後日見てゆくこととしやう。兎も角、後年にみられる伯養軒発展の第一功績は、列車食堂で勝ち得た信頼であると云へやう。

【沿 革】

 仙臺ホテルの列車食堂並に構内食堂部門は、昭和六年に有限會社「伯養軒」として分離獨立した。處でその名の由來は何處にあるのだらうか。恐らく大正十二年に仙臺ホテルが開設した迎賓舘「伯養閣」から上二文字を頂戴したものだらう。
「伯」の字には総領の意味がある。だから「偉い人を養ふ」なのかも知れない。亦、この一字には百人の意味もある。だから「萬人を養ふ」なのかも知れない。列車食堂ならば前者の解釈を、驛蕎麦屋なら後者の解釈をすべきなのだらうか。
 現在の伯養軒は、大泉勘寿郎が昭和十七年に株式會社へ改組したものである。有能な支配人を國鐵から經營の中樞に迎へ戰爭中にも野邊地驛飯田屋を買收するなど商域を擴大してゐる。
昭和二十年の仙臺に於ける戰災で施設の大半を失ふが、終戰後に會津若松、盛岡、秋田、弘前、郡山などに一括して出店許可を得、亦その後十年間に多くの店舗が開設されてゐる。その因果關係として昭和二十四年の國鐵職員大量リストラの際、彼等の多くを受け入れた事が注目される。

 現在でも伯養軒は、東北の主要驛で各種名物辨當を扱ひ、美味さうな蕎麦つゆの香りを運んでゐる。新幹線の車窓から結婚式場「伯養軒會舘」の勇姿を眺め乍ら、今日も多くの旅人達が東北を行き來してゆくのである。


【蕎 麦】

 伯養軒の蕎麦店を幾つか巡ると、「規模の經濟」なる言葉が頭に浮かんで來る。何處の驛でも同じ合鹿椀型の食噐が使用され、つゆは工場で生産されたペツトボトル入りの「伯養軒つゆ」である。標準化によるコストダウンの實例と云へやう。
だからどの驛で喰つても似たやうな味であるが、このつゆは酸味と旨味の調和があつて意外に美味い。「乙」と云ひ乍らも上層に位置する味はひである。
それ達の合理化の實例とは別に、店舗のブランドは數種類ある。「そば處」「こけし亭」「MEN SHOP」の三つが第一種驛蕎麦に確認出來るが、三者の間にどのやうな違ひがあるのか不明である。兎に角、此處まで學習した諸君ならば、東北を訪れた際は最初の一杯を義務的に伯養軒で賞味す可きである。



文中の敬称は略させて頂きました。
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