列 車 食 堂 の 殘 映




「日本食堂」

 平成十年の驛蕎麦一大事が何かと云へば、十月一日の「日本食堂」社名變更では無いか。同社は創業六十周年を迎へて社名を「日本レストランエンタープライズ」とした。小生としては、新社名に可成の違和感を覚へるが、兎に角今回は鐵道構内食堂の最大手として六十年の歴史を誇つた「日本食堂」を採り上げ度い。

【創 業】

 日本食堂の成立は昭和十三年である。當時列車食堂を經營してゐた六社各々の列車食堂部が合同し、新しい列車食堂專門會社として發足した。何故合同したのか。其れは直接的には鐵道省の指導の結果であるけれども、我々は其の社會的背景にも注目しなければ成らない。
 つまり、昭和十一年の 2.26事件、その翌年の日華事變や十三年四月の國家綜動員法公布などに見られるやう、當時は戰時色に彩られた時代であり、挙國一致・國内相剋の一掃が最も重要な事であつたのである。
 元々國家事業たる國有鐵道の傘の下で商賣を營む列車食堂業者達は、真ツ先に國家方針に従はざるを得なかつたのであらう。そして列車食堂事業を失ふ事になつた彼等は、新生日本食堂の經營に関与する他に驛食堂事業に活路を繋いだのである。

【前 史】

 合同以前の列車食堂六社とは、みかど、精養軒、伯養軒、東洋軒、東松軒、共進亭であるが、この中で列車食堂業者として最長の歴史と最大の經營規模を誇つたのが「みかど」である。
抑々本邦の列車食堂事業は、明治三十二年に山陽鐵道の直營により創始された。しかしこの經營は上手く行かず、明治三十四年に神戸の「自由亭ホテル」、即ち後の「みかど」が之を引き受けたのである。
 このやうに「みかど」の列車食堂は山陽鐵道から始まつたが、其の後は國鐵東海道本線、鹿児島本線、北陸・羽越線、函舘本線と次々に營業路線を擴充した。今日でも「みかど」の構内食堂は彼等の旧營業網に沿つて全國に點在する。其姿から、我々は伯養軒の地域限定マーケツトとは對照的な經營方針をみる事が出來る。そして小生が函舘驛で賞味した蕎麦も亦「みかど」の經營である。之は、同社が昭和十一年に買収した浅田屋構内食堂の名殘と思はれる。
 尚追記となるが、列車食堂六社のうち東洋軒と共進亭の二社は、後に驛食堂事業も日本食堂へ譲渡した。また東松軒は水了軒と名前を變へ、今日でも大阪を代表する汽車辨當業者としてその名を轟かせてゐる。


    ◆ 列車食堂の運營略史
 昭和一三 日本食堂成立(一社獨占體制へ)
 昭和一九 戰局惡化により列車食堂中止
 昭和二四 特急「へいわ」に食堂車復活
 昭和二八 帝國ホテル列車食堂事業參入
 昭和三一 都ホテル、新大阪ホテル參入
 昭和三七 聚樂グループ参入
 昭和三七 東北線のバフエに汽車蕎麦登場
 昭和四七 北陸隧道事故。列車食堂から失火
 昭和五○ 急行列車から列車食堂廢止
 昭和六一 晝間在來特急から列車食堂廢止
 平成○五 東海道夜行特急から列車食堂廢止 

【日本食堂】

 日本食堂は列車食堂專門會社として發足したが、今日迄の概略は右の表の通りである。最盛期に數社の新規参入をみたが、今日では彼等も多くが撤退し、事實上列車食堂の時代は終はつたと云へやう。

 列車食堂の時代は終焉を迎へたとは云ひ乍らも、日本食堂が驛構内食堂の大手としてその存在意義を高めた事は諸君もご存知の通りである。
同社は構内食堂業者を初めから視野に入れてゐたらしく、第一号店舗は發足直後に設置された稚内港驛(現在廢止)であつた。驛蕎麦に關しては、昭和二十七年の兩國驛ホームが最初であるらしい。而し之も現在はその姿をみる事が出來ない。

 資本構成の推移にもこの企業の性格をみる事が出來る。發足當初は旧列車食堂六社と日本旅行協會(現JTB)が株主であつたが、事業の擴大に伴ひ増資を行つた結果、國鐵共濟組合の資本を入れた。
國鐵の比率は最初二割程度であつたが次第に増加し、國鐵民營化の直前には鐵道弘濟會と合はせて過半數を握られてゐた。そして昭和六十二年、又もや運輸省と國鐵の方針により事業體を分割する事となつたのである。


【その後の日本食堂】

 叙上のやうに日本食堂も國鐵の分割民營化に合はせて、昭和六十二年に北海道地區と九州地區が、翌年東海地區と西日本地區が分社された。「分社」であるので「日本食堂」と云ふ名前は東日本地區に殘る事となつた。また四國は元々日本食堂が進出して居らず對象外である。

  • につしよく北海道 (現 北海道ジヱイ・アール・フーズ)
  • 日本食堂 (現 日本レストランエンタプライズ)
  • Jダイナー東海
  • につしよく西日本 (現 JRウエストレストラン)
  • につしよく九州 (現 ジヱイアール九州トラベルフーズ)
 これらの企業達は夫々平成四年に旅客鐵道會社の資本援助を受け、供食關連事業の中核子會社になつてゐる。名称も「日本食堂」を連想させるものは無くなつて仕舞つた。

【旧日本食堂の驛蕎麦】

 此の様にして再出發した新會社の驛蕎麦を小生も幾つか賞味した。
大阪環状線の福嶋驛ではJRウエストレストランの蕎麦を喰ふ事が出來る。西日本管内には他に「味彩」や「味さい」と云ふ名の店があるが、これらも日本食堂時代の愛称引き継いだ店舗のものであらう。
 また東日本旅客鐵道傘下の日本レストランエンタープライズだが、この會社は「あじさい」の積極的展開にみられるやう、當節最も驛蕎麦に力を入れてゐると云ひ得る。この周辺の状況は機会を改めて學習しやうと思ふ。



文中の敬称は略させて頂きました。
新事實を御存知の方は小生まで一報願ひます。