瓢 箪 か ら 驛 蕎 麦




 眞の驛蕎麦愛好家は味覺に執着すべきで無いと云ふのが小生の持論である。驛と蕎麦の融合、列車と蕎麦の雰圍氣、さう云つた周邊環境をも加味して初めて「驛乃蕎麦」の賞味が成立するのではないか。
また、全く豫想しない事象から驛蕎麦へアプローチをかけるのも、ひとつの悦びである。今回は幕末の志士と有名なハムから蕎麦を捻り出す事としたい。


東海道線 品川驛 「常盤軒」



 幕末の志士に小松帶刀清廉と云ふ人物がゐる。困難な時勢の中、27歳で薩摩藩家老となり中央政治の舞臺で活躍した。公武合體や大政奉還等の重要な局面に於て帶刀の果たした役割は大きい。
其れから鐵道建設の建白も行ひ、早くよりその有用性に注目してゐた。維新後の活躍が期待されたが明治三年、病を得て36歳の若さでこの世を去つた。この爲幻の宰相とも云はれてゐるのである。


【沿 革】

 ここまで讀んで、之は驛蕎麦の話では無いのかと訝しく思ふ諸君もあるだらうが、この小松家の末裔が品川驛「常盤軒」の經營者である事を知れば納得が行くだらうか。
 戰前の小松家は維新の勳功により男爵家であつた。清廉の孫代、當主 重春の時に、鐵道大臣 大木男爵から 小松家の鐵道に對する貢獻を認められ、重春の妻 ふく子に品川驛構内營業權が許可されたのである。
かうして大正11年以來、小松家と常盤軒の長い歴史は續いているのである。

【蕎 麦】

 品川驛では、常盤軒の蕎麦屋が京濱東北線・山手線・東海道線下り・横須賀線の各ホームに展開してゐる。東海道・横須賀兩線は「あずみ野」と云ふ店名であるが、之はJR東日本レストランの系列蕎麦店と同じであり、どう云ふ事情なのか興味深い。


 常盤軒の蕎麦は複數の讀者諸君から追加推薦を受けた。曰く「驚きの蕎麦」なる紹介であつたので小生も之に關心があつたのだが、先日「びつくり蕎麦」を賞味した。
 此の品書きは550圓もするが、通常の三倍ほどもある丼鉢に天夫羅、若芽、鶏卵が入つてゐる。左写眞の卵と比較して大きさを判斷して貰ひたい。麺も二玉は使用して居り可也喰ひ應へがある。

 山手線内で鐵道資本で無い會社がやつて行くには色々な苦勞があらう。しかし生き残る理由は豊富な品書きにあると思つた。硬目の麺を噛み締める爲に品川で下車するのも惡く無い。



東海道線 大船驛 「大船軒」

 「鎌倉ハム」と云へば高級品として餘りにも有名なので諸君もご存知であらう。鎌倉にハム製造が根付いたのは、明治初年に横濱に在住した英人ビル・カーチスの影響が大きい。明治 7年、彼は相模で飼育される「高座豚」を使用したハム製造で好評を博し、やがて其れは鎌倉を中心とした一帶に擴がつたのである。

【沿 革】

 しかし鎌倉ハムと云ふのは所謂 登録商標 では無い。今日でも幾つかの生産者が存在するが、特に全國に販路を持つ有力な製造販売業者に「鎌倉ハム富岡商會」がある。明治33年創業の老舗である。そして創業者の富岡周蔵は又、大船驛構内營業の大船軒を創始した人物でもあるのである。

 大船軒の創業は「鎌倉ハム富岡商會」に先立つ事2年、明治31年の事である。東海道線と横須賀線が分岐するこの驛で初めての構内立売業者であつた。
その商品のひとつであるサンドヰツチに挟むハムを自家製造したのが富岡ハムのはじまりである。また大船軒自體も、昭和20年代後半から大船に續き藤澤、戸塚、根岸線本郷臺などに據點を擴大してゐる。


【蕎 麦】

 蕎麦を説明する前に、大船軒の主力汽車辨當である「鯵の押し壽司」を紹介しなければなるまい。相模灣で獲れた鯵の壽司は、大正2年に賣り出された。今では大船軒の名物としてデパートの驛辨大會には缺かせない一品となつてゐる。又、罐入り飮料、大船軒特製「旅乃お茶」は小サイトに名が似て興白い。

 大船軒で蕎麦を賞味した際、小生は既に鎌倉ハムと大船軒の關係を知つてゐた。だから「ハム天蕎麦」などがあればそれを喰はうと思つてゐたが、それは無いので同じく動物性蛋白質を含む「鳥唐揚」蕎麦にした。しかし殘念乍ら唐揚に特段の印象は無かつた。

 平成11年、日本レストランエンタープライズの資本が入つて、大船軒トラベルフーズに社名が變はつた。しかしその蕎麦の味は甘く辛く、昔からの大船軒獨自のものであらう。
鎌倉に遊んで歸りにハムでも買ひ、最後は大船へ出て觀音樣を拜みつつ大船軒で蕎麦を喰ふ旅は如何だらうか。




文中の敬称は略させて頂きました。
新事實を御存知の方は小生まで一報願ひます。