驛 蕎 麦 七 變 化




 街角に紫陽花が咲き誇る季節を迎へた。滿開のまま彩りを變へるその花を、人は「七變化」の別名でも呼ぶ事がある。しかし驛蕎麦愛好家が雨を眺めて思ひを致すとすれば、首都圏随一の店舗網を持つ「あじさゐ」では無いだらうか。平成8年に山手線の惠比壽驛構内に登場したのが始まりで、かつて日本食堂と呼ばれた日本レストランエンタープライズ(NRE)の經營である。
 爾來5年、「あじさゐ」は梅雨に咲く紫陽花を凌ぐ勢ひで繁殖した。本節では「あじさゐ」繁榮の構造を改めて敷衍しやうと思ふ。その第一歩として世の中に「あじさゐ」が登場する直前の状況から振返つてみたい。

    【 あじさゐ以前の東京廣域驛蕎麦 】

 JR直營  「小竹林」 「かいじ」 「喜多」
JR系  JR東日本レストラン 「あずみの」
 日本食堂 「山の手そば」
 東日本キヨスク 「TASTY KIOSK」
外様  日本交通事業社 「更科」 
 ジヤパントラベルサービス 「生そば處」 
日食系  中央開發 「道中そば」
 日食中央 「ラガール」
 京葉觀光産業 「京葉そば」 

 右表は平成7年の東京に於けるJR沿線驛蕎麦網をまとめたものである。昭和後期に繚亂期を迎へて以來、東京に於ける驛蕎麦業界の秩序は比較的安定したまま推移してゐた。この結果、東京の愛好家は實にバラエチー豐かな驛蕎麦ライフを送る事が出來たのである。

 本題の「あじさゐ」は、數年後に右の秩序に大きな影響を与へる事となつたが、日本食堂は當時「山の手そば」と云ふ暖簾を、澁谷・上野・中野・荻窪などに展開してゐた。これは昭和62年に澁谷驛外囘りホームで創始されたものである。しかしこの「山の手そば」は平成10年には消滅して仕舞つた。
それでは、同じ日本食堂が經營した「山の手そば」と「あじさゐ」では何が違ふのだらうか。


    【 商標あじさゐの確立 】


 「あじさゐ」の登場はあらゆる面で革命的であつたと云へやう。それは店内を彩る紫の色彩、專用丼鉢を始めとする調度品類に具現化されてゐる。つまりこれまで積極的なブランド創造を必要としなかつた驛蕎麦に於ゐて、 "商標イメージの固定化" を圖つた點で「あじさゐ」は「山の手そば」や從來の驛蕎麦と區別されるべきなのである。

    山の手そば 天目鉢
あじさゐ あじさゐ鉢
 他方、特筆すべきは麺の調達方法に就いてであらう。從來「山の手そば」の麺は製麺業者からの仕入であつた。しかし「あじさゐ」では自社製の麺に變更されたのである。そしてこの麺こそが「あじさゐ」繁殖の謎を解く鍵なのである。

    【 七變化の系譜 】

 諸君もご存知の通り、平成8年以降「あじさゐ」店舗網は、從來の驛蕎麦暖簾を置換して擴大した。 しかし日本食堂では「あじさゐ」以前より 從來企業への資本参加で間接的な驛蕎麦網を擴げてゐた。無論廣域驛蕎麦「あじさゐ」を計畫する上で、驛蕎麦の經營は大いに参考となつた事だらう。

 「道中そば」を經營する中央開發は、元々昭和52年創業の驛蕎麦專門會社であつた。本社を代々木に置き中央線沿線を商域としてゐたが、日食から數度の増資を受け平成5年に同社の完全子會社となつた。
 一方「ラガール」(La Gare =仏語で 驛 の意)を經營する日食中央の起源は、昭和36年に八王子で設立された"車販會社"「中央車販」である。同社も平成6年に買收され、日食の完全子會社と成つてこんにちに至るのである。


 "車販會社"とは、汽車辨當の車内販賣を行ふ目的で、沿線の構内營業者が共同出資した企業群の事である。昭和30年代には、業者間の無用な競合を避ける爲に全國各地の鐵道管理局に一社づつ車販會社が設立された。しかし國鐵が民營化されると、車内販賣はJR關係會社に一元化される事になつた。
 京葉觀光産業も車販會社のひとつである。同社は昭和33年に千葉鐵道管理局内に設置された最初の車販會社で、副業として「京葉そば」を總武線沿線に持つてゐた。同社も日食からの増資を受けたが子會社化には至らず、平成9年に日食から吸收合併され、「京葉そば」も平成10年には「あじさゐ」化された。因みに新潟の車販會社、新鐵構内營業の「万代そば」も合併されてゐる。

 加へて平成9年から10年にかけて「かいじ」「小竹林」「喜多」のJR直營蕎麦網までもが「あじさゐ」化された。
とりわけ齒應への良い冷凍麺を使用して評判となつた「小竹林」が、ゆで麺を使用する「あじさゐ」に變更された事は、我々愛好家から見て實にセンセイシヨナルであつた。
驛蕎麦愛好家の好き嫌ひは兎に角、日本食堂がNREに社名變更した平成10年11月には、「山の手そば」「京葉そば」「かいじ」「小竹林」「喜多」の殆どが「あじさゐ」に衣替へされたのである。

    【 繁殖の構圖 】


 さて、小生は「あじさゐ」繁殖の鍵は自社製の麺にあると書いた。この麺は、日産10万食とも云ふNREの製麺工場から配送されてゐる。そして同工場の完成時期は「あじさゐ」の展開時期と符合するのである。
 一方NREは、平成11年頃に立川の中村亭や大船軒など、從來業者と個別販賣會社を共同設立し、この麺を卸し始めた。かう云ふ状況から、「あじさゐ」「道中そば」「ラガール」のNRE系驛蕎麦網は、大量のNRE麺を賣り捌く爲に擴張されたと推測出來るだらう。

 處でこの製麺工場の建設用地は、JR東日本から賣却されたものである。その時點で、既に「あじさゐ」の繁殖は保証されてゐたと小生は考える。つまり首都圏に咲き誇る「あじさゐ」の種子はJRが日食に賣つた北戸田の土地であると云ふのが本節の結論なのである。

 平成12年、JTB系の驛蕎麦「更科」が撤退し、一部が「あじさゐ」へ移管となつた。之を經營した日本交通事業社は廣告業を主としてゐるが、古くより商事部門で「更科」の暖簾を出してゐたものである。愛好家として見れば、驛蕎麦の暖簾や味が畫一化するのは寂しい事である。
 しかし反面「あじさゐ」は、饂飩を頼めば關西風のつゆを使ふなど藝が細かく、豐富かつ斬新な品書きなど、その營業努力は新しい驛蕎麦として評價に値するのではないか。「あじさゐ」が新たな顧客を開拓し、21世紀の驛蕎麦を担ふ事に期待して今回は箸を置きたいと思ふ。




文中の敬称は略させて頂きました。
新事實を御存知の方は小生まで一報願ひます。